ANTIBODIES Collective zine「ENTROPICAL PARADISE 01」刊行!!!

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エントロピーの楽園犬島公演に合わせて、ANTIBODIES初のzineができました!

ANTIBODIESの創作のかけらが垣間見える渾身の一冊。
コレクティブらしいメンバーの個性が色濃く出た多彩な内容になってます。
来場者に配布します。
お楽しみに!

公演のテーマ「エントロピーの楽園」についての巻頭の演出のカジワラトシオとドラマトゥルクの石橋源士の対談です。参加の前にぜひご一読を。

 

『ENTROPICAL PARADISE』対談 カジワラトシオ(B) X 石橋源士(G)

B 今日の世界を見ていると、上昇を続けるエントロピーと向き合うということは、まさしく「未知」と向き合うということに他ならず、人類は知った顔をしているだけで未だ何も知らないに等しいんだと思わされることが多い。その圧倒的な「未知」と向き合ったボルツマンの研ぎ澄まされた霊感が奇跡的にエントロピーの法則に到達した。彼はアインシュタインとはまた別の表現系だなと思う。ピアニストだったらしいよ。自殺してしまったけど。

G エントロピーの概念は捉えどころがない半面、想像力やひらめき、予想を超えた展開へと導いてくれるなかなか面白いキーワードだよね。エントロピーが増していくということは、一般的には雑然さや、カオスの状態が増していくことと捉えられることが多いけど、カオスや雑然さが広がっていったとき、それは均一に広がりきっただけで終わってしまうのだろうか? カオスの淵においての自己組織化や反転はないのだろうか? それを物質の状態の観察から、人の動きや気持ち、環境とのやりとりにまで拡大してみるとどうであろうか?

B 創造という事象自体が破壊の上に成り立つものである様に、エントロピーは生命すらもが混沌から生まれてくるということを表しているよね。つまり生命自体が宇宙の終焉に深く結びついているということ。混沌の中に自己組織的な秩序が生まれては崩壊する、その非平衡状態を歩み続けて来たのが人類。台風の形や動きにおける秩序は常に一過性であるのと同じように、人間社会も常に非平衡の状態にある。

G カオスはいけないことなのか?カオスはただカオスのままなのか?これまでに『エントロピーの楽園』をサブテクストにした二つの舞台公演を経て来た訳だけど、その実験的な行程の中で手応えとして感じられたことは、制作側で意図せずともカオスからの反転現象は自ずから勝手におきてくるようであるということ。そしてその反転現象は予想を超え自在に連携、干渉、展開をはじめていた。

B 流れる系のエネルギーの中でしか自己組織性は生まれないというようなことをスチュアート・カウフマンも言ってるよね。アンチボに向き合っていると、やりがいや高揚を感じることも、無駄で辛いとしか感じないことも、これ一体にして私たちの舞台だと感じる。片一方が失くなれば全てが失くなってしまうと言うか、イケてるところだけ、気分が良い部分だけを構成しようとしても、実際に立ち上がる世界は全く自分たちらしくないものになってしまう。ならば、全てを肯定するしか私たちの進む路はない。自由になるということは、体験の全てを肯定するということ。それは変革を恐れなくなることであると同時に、他者に対して寛容になることでもある。否定に基づいた思想は、騒がしくとも何も動かさない。それはまさにアンチボのメッセージだと思う。

G 綺麗にまとめることしか頭にない形骸化したアートを投げ捨てて、そこから積極的に迷子になろうと果敢に挑戦しているのがアンチボだよね。目的や意味の喪失を不安がらず、その極性が反転するポイントを変形し続ける出来事の集合の中に探している。

B そこには確実にこの手法でしか到達し得ない風景が広がっていると思う。今までも自分は集団即興というコレクティブな音楽の手法を通じてその実感を得て来たと思うけど、カーゲルの荘厳な遊び感覚とか奇跡的な民族音楽の現録みたいな音楽を聴いたとき、一生自分にはこんな深淵で不思議な音楽は創れないだろうと思った。ところが、そんな自分が驚嘆するほど面白い音楽をアンチボが不意に奏でるのを聞いた時、久しぶりに音楽を創ることへのワクワク感が爆発した。それぞれが自分の鍛錬において、そういった実感を掴んでいくこと。それが本当のインターディシプリナリティであり、コレクティブの強度だと思う。

G近現代が信じる直線的時間とは、始まりがあってどこかに終りがあり、ものごとは常に進化、発展しているとする二次元的で不可逆的、一方向的な世界だよね。そこでは起承転結や、目的、動機、結果やヴィジョンなどが重宝される。一方で近現代より以前、世界のいたるところにあったとされる円環的時間においては、発展や進化、起承転結などよりも、永遠に続く「円環的循環」の中でのバリエーションを楽しむ姿勢が重要とされてきた。神話や昔話などにこのような気配を見つけだすことができるけど、そこには現代の感覚からするとたいしたオチのようなものがない場合が多いよね。このような世界はその循環の中でのやりとりと芳醇をひたすら享受するという世界。そしてこの芳醇を享受するためには、達成感や使命感に導かれて動くのではなく、より一層“遊ぶ”という心持が求められると思う。アンチボが試みてきた回遊型の作品をはじめとした、流れの中の多彩に浸るという姿勢はこの世界に近いのではないかと思う。
アンチボは、プロダクトとして完成した作品よりもその作品を作る方法や、その過程を通じてその本人や社会が変容していくことにより重きをおいている。完成品は本当に完成品なのだろうか?完成品と呼ばれるものにそれほどの価値があるのか?それよりも豊かなプロセスの方に重きをおき、それを存分に楽しんではいけないのか?このような数々の問いかけが、今回もまたこの犬島において心おきなく発せられることに期待ですね。

B 日本の「諸行無常」、インド哲学の「輪廻転生」、もしくはニーチェの「永劫回帰」といった思想も「円環的循環」という視座から垣間見た世界だよね。近代という「直線的時間」の流れを前にして消えていったエジプトやマヤなどの古代文明、数々の未開社会もそうだし、ある意味ここ犬島の生活文化やニコラ・テスラだってそうと言えるかもしれない。宇宙の仕組みに関わる極度に偏った概念を全世界に押し付け、それに対抗する思想や物理科学を排除し続けた結果として今日の高エントロピー社会がある。宗教も教育も、貨幣も民主主義も、人間文化のあらゆる局面においてパラダイムの転換が必要とされていると感じることが、東日本大震災の混乱の中でコレクティブとして立ち上がったアンチボの精神論の原点だと思ってる。

G 社会制度の枠組みを変えていくことは難しい。でも考え方や価値観、倫理観のようなものは個人の内側で柔軟に変化し続けていることだよね。結局のところ、個人が新たな身体感覚に目覚めたり思考実験を繰り返したりしていると、その結果様々な可能性が重層的多元的にあちこちで出来ていく。全体のコントロールを図るような近現代的なアプローチよりも、部分の自発的な動きから何がしかの秩序が育成されていくような方法。そういったやり方が共有されていくようになることで、アンチボがいうところの「建設的な変革」が可能になっていくと思う。